人間と文化コースですから
そりゃ文化というものを
考察する科目もあります。
怒りを鎮めて
いろんなことを許したい僕としては
他人を
自分以外の考え方を理解する
というのは重要なテーマです。
これまでの人生
いろんなコミュニティで浮いたり
馴染めなかった僕からすると
性格の違いって言うけど
そもそも文化が違ってるんだよ。
というでっかい話は
むしろ救いに感じられるのです。
気合いで治るもんじゃない
職業柄
海外のノリに触れることが多いのですが
そういうコミュニティには
海外のノリこそとるべき態度
と考え始める人が
どこいってもいます。
言わんとしていることはわかります。
その場合は「外交的」だったり
「肯定的」だったりする態度が
礼賛されているから。
そりゃそういうふうな人は
一緒にいて楽しいです。
ただ厄介なのは
ノリについていけない人に、
いわゆる「純日本人のノリ」
でいる人に
「あなたも変われる!」
という圧がかかり始めること。
これもなぜか
お約束のごとく
往々にして起きます。
これは「変わりたい!」
と気合を入れたり
無理してクラブに出かけたりして
治すもんじゃなくて
いいこととして繰り返されるうちに
コミュニティにおける生存戦力として
脳の長期記憶に保存された記憶が
文化と呼ばれるものの正体。
その国の文化的な価値観で
良しとされて強化されてきた
振る舞いは根本から違う。
ということに起因しているので
欧米人の気分で
振る舞えるようになることが成長
とかではないってことのようです。
そりゃそうだよね。
折れてしまった僕、と友だち
欧米のノリって成熟してて素敵
という考えのコミュニティで
仕事のための訓練を受けた僕
と何人かの友だちは
あまりのノリの違いと
高すぎる肉体的負荷のために
心が折れたことがあります。
いわゆる鬱ってやつです。
こういうふうに振る舞え!
とアメリカのような
外交的で自己主張型の
振る舞いを強要された
どっぷり系日本人だった僕は
心がついていきませんでした。
内向的な人間を
無理やり外交的にしようとしても
ロクなことが起きません。
いい悪いじゃなくて
違いを認めて
きちんと認識することが
大事だったんじゃなかろうか。
ちなみに
そのとき心が折れた
素直ゆえにボロボロになった組と
折れなかった
意識高いゆえにキラキラしてた組は
その後に状況が逆転しました。
ボロ組はそれぞれの道をみつけ
キラ組は三年前とかのSNSの投稿を最後に
何しているのかわからない人がほとんどです。
当時、できない自分を責めながら
キラ組の人たちを見て感じていた
「圧倒的異物感」は
それまで育ってきた価値観からの
呼びかけだったのかもしれません。
さらに言えば
目の前の人の価値観を
尊重できないなら
違う文化の人とわかりあう
なんてことはできないのかもしれません。
おわりに
ノれなくて浮いていることが多い僕ですが
素直に信じられるものに従っていたら
友人ができていました。
同じようにノれなくて
浮いていることが多い人です。
彼はこの科目のことは
もちろん知らないけど
どっちがいい悪いじゃなくて
これが自分のノリ
ということがわかっている
のだと思います。
その辺の姿勢は
ずっと忘れないでおこうと思います。
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